狭山茶の始まりには諸説あり、最も古い記録によると、13世紀、すなわち1200年代に遡ると云われる。
その当時飲まれていたお茶は、現在のような煎茶ではなく、茶の葉を直接すりつぶして湯に煎じたものや、茶の葉をそのまま煮出したりしたものであった。
当時、栄西(ようさい/えいさい、1141-1215)が中国から茶の木を持ち帰り、日本で栽培を始めたのが1214年頃とされる。当時の情報伝達の役割を果たしていた寺、すなわち今日に伝わる川越の喜多院などが茶の栽培を関東地方に広めたと云われる。
関東地方の茶の歴史上の書物への登場は、
「異制庭訓往来」(1400年頃成立、諸説あり)にて、茶処として京都や駿河(現在の静岡県)に次ぎ「武蔵川越」の記載がよく取り上げられる。
その後、室町時代、戦国時代という動乱の世が続き、関東地方にて安定した茶の生産は行われていなかったという見方が有力であった。その間はやはり、茶の葉を直接すりつぶして湯に煎じたものや、茶の葉をそのまま煮出したりした粗雑な茶が庶民の間では飲まれていた。
その後、江戸時代、日本茶の歴史上における革命を迎える。
永谷宗円(ながたにそうえん、1681-1778)が、1738年、今日に伝わる煎茶製法を確立するのである。
煎茶の祖、永谷宗円
(画像元:永谷宗円茶店 永谷宗円像 URLhttp://www.nagatanisouen.com/about/01.html)
そして、一時は名を馳せた「武蔵河越」の「河越茶」の復興気運の高まりと煎茶製法の確立を機会として、
吉川温恭(よしかわよしずみ)、村野盛政(むらのもりまさ)、指田半衛門(さしだはんえもん)らが、本格的に関東地方における茶の安定生産、ビジネス化を試みたのが、18世紀中頃(1750年~1780年頃)であると云われ、これが直接今日に伝わる狭山茶の元祖である。
狭山茶の祖、吉川温恭
(画像元:狭山茶業史 p.17 吉川忠八像)
江戸という大消費地の近郊という地の利を活かし、狭山茶は安定的に生産を拡大し、大生産地となった。特に生産が盛んであったのが、現在の埼玉県入間市、狭山市、所沢市地域などの埼玉県西部地方であった。狭山丘陵に位置するこの地域は、水はけが程よく茶の生産に適していた。
その後、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市)出身で実業家の高林謙三が、1897年に「茶葉粗揉機」を完成させると、それまで手揉み製法などの手工業的手法に頼っていた茶の生産性は格段に高まり、生産量は更に増加する。
時を同じくした明治時代には、「狭山会社」などの商社が茶の輸出に乗り出していた。最終的に、安定的な輸出には繋がらなかったが、当時の先人たちのスピリットは今なお、我ら狭山茶の生産家に残る。
製茶機会化の父 高林謙三
(画像元:埼玉県庁HP 高林謙三像 URL:https://www.pref.saitama.lg.jp/a0305/ijindatabase/syosai-179.html)
その後、戦時中には、一部の茶園も芋などの作地への転換が図られたが、今日に伝わる茶園の多くは守られた。戦後には、東京の人口増加に支えられ、1975年の埼玉県の荒茶生産は3000トンを超え、全国屈指の茶の生産地の名を確立する。しかし、1980年代以降は、東京近郊としての宅地開発や地価高騰の影響を受け、茶畑の減少とともに生産量も減少する。
近年は狭山茶をフィーチャーしたオリジナル商品の開発や、東京への出店など、多くの生産家が新しい市場開拓に取り組んでいる。
参考文献:埼玉県茶業協会編(1983)『狭山茶業史』
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